家につくと、誰もいなかった。別に付き合ってるわけじゃないので、奈津は無防備なまま家の中へ「おじゃましまーす」と入って行く。
言わなくても俺の部屋が分かるので、勝手に部屋に向かう奈津。それを見送ると俺はキッチンに飲み物とお菓子を取りに行き、おぼんに乗せて持って行った。
部屋に入ると、奈津は歩美との勉強会で使っていたテーブルの前に座っていた。昔来たときは勝手に部屋を漁っていたくせに、よく見ると前髪を直したりスカートの裾を引っ張ったりと女らしくなっていて吃驚した。
奈津「なんか、涼太の部屋って全然変わってないね」
俺「そう?」
奈津「うん。ベッドの上の目覚まし時計も、本棚に置いてあるサッカーボールも、あと壁の国旗も変わってない。どこの国だっけ?」
俺「ブラジル」
奈津「あっ、そうだ。ブラジル。なんでブラジル?」
俺「知らない。兄貴がいらないって部屋に持って来たやつだから」
兄貴という単語を吐いた瞬間、鈍感な俺でも分かるくらいに奈津は反応した。思わず「えっ?」と聞いてしまうくらいだった。
俺「えっ?何、なんでそんな反応した?」
ここで気づかない振りをするのが当たり前の状況だったが、俺は空気が読めなかった。兄貴という単語に反応したことには触れず、じわじわと奈津を責めていった。
奈津「いや、別に…」
俺「なんだよ、言えよ。俺に相談があるんだろ?」
約1年ぶりにまともな会話をしたくせに、そんな期間がなかったかのようにすぐ元通りの俺達に戻る。
俺はこの時すでに嫌な予感がしていた。珍しく相談があると言った時点で、少なからず俺の周りの男へ恋してるんだろうとは思っていた。その協力要請だと。
しかし、現実はそううまくいかない。奈津はうつむいてもじもじし出すと、ゆっくりだが言葉を吐いた。
奈津「実は、ね。その…」
俺「なんだよ。お前らしくないからハッキリ言っちゃえ」
奈津「私、涼太のお兄さんの、健太くんが…えっと、その…あれなんだ」
俺「はっ?」
奈津「だから、健太くんのことが好きなの!」
ようやく顔を上げた奈津は泣きそうで、ちょっといじめ過ぎたかな?と思った。だけどそれよりも、兄貴を好きという事実に驚きを隠せなかった。
俺「冗談?ガチ?」
奈津「なんでそんなこと言うの?」
俺「だって、お前今までそんな素振りも見せなかっただろ」
奈津がなぜこのタイミングで俺に兄貴が好きなことを話したのか訳があった。どうやら奈津は駅前にある塾の帰りなどに、兄貴を見かけていたらしい。
奈津「健太くん、たしか自転車通学だよね?だから頻繁に駅にいるのおかしいと思ってたんだ」
運が良いのか悪いのか、奈津は歩美の存在を知らなかった。ふと時計に目をやると、夕方の5時を過ぎていた。そろそろ、部活がない兄貴達が帰ってくる時間だ。
このまま帰せば、奈津は歩美の存在を知らないままでいられる。でも、それでいいのか?俺はどうするのが最善なのか考えても分からなかった。
そんな風に悩んでいると、外から女の笑い声が聞こえて来た。窓から見なくても分かる。歩美だ。
その笑い声が聞こえたのか、奈津の表情が固まって行く。さっきまでの笑顔は消え、絶望的な顔だった。縋るように俺を見つめ、この部屋の空気だけが一気に冷えた。
「ただいまー」と言うふざけた歩美の笑い声が聞こえたかと思うと、奈津の靴に気づいたらしく「健太!可愛いローファーがある!」と玄関で叫んでいた。
俺らは何もしなくてよかった。ただ、待っているだけで残酷な現実はやって来る。
歩美「涼太!彼女連れてきたでしょ!」
ノックもせずに勢いよく部屋のドアを開けたのは、暑くなってきたのでセーターを腰に巻いた歩美だった。
もう、ね。この時ほど奈津に対して悪いと思ったことはなかった。頼むから、言わないでくれ。俺は、そう願っていたと思う。
歩美「はじめまして。涼太の彼女さん!健太って涼太の兄と付き合ってます、歩美です」
でも、そんな願いは叶わず、歩美は笑顔で名乗ってしまった。その笑顔には、見覚えがあった。初めて歩美にあったときと同じ無邪気な笑顔だった。
遅かれ早かれ、兄貴に歩美という彼女がいることは奈津にも伝わる。でも、別にそれが今日じゃなくてもよかったはずだ。
兄貴「あれ?なっちゃん?久しぶりだね!」
遅れて登場した兄貴が、身長の低い歩美の頭の上に自分の顎を乗せて俺の部屋を覗き込む。
昔よく連れてきた奈津を、兄貴は覚えていた。
歩美「えっ?知ってるの?」
健太「知ってるよ。涼太と同級生の可愛い俺の妹。久しぶりだね、元気だった?」
奈津「あっ、はい。お久しぶりです…」
健太「敬語じゃなくていいのに!昔は普通にタメ語使ってたじゃん」
奈津「そんな、先輩ですから!」
そんなどうでもいいやり取りを、俺は無理やり止める。
俺「兄貴!ちょっと出てって!あと歩美、別に彼女じゃなくてこいつとは委員会が一緒だから今から仕事するんだよ!」
歩美「えっ?そうなの?ごめんね、邪魔して。じゃあね、なっちゃん!」
嵐のように過ぎ去って行った兄貴と歩美。もちろん、委員会なんて嘘だ。
2人がいなくなった部屋のドアからゆっくりと視線を奈津に移す。そこには、まだ呆然とドアを見つめている無表情の奈津がいた。
俺「あの、もう分かったと思うけど。今の、歩美ってやつが兄貴の彼女」
奈津「…うん、綺麗な人だね」
俺「あのさ、奈津」
奈津「なに?」
俺「…ごめん」
次の瞬間には、もう。奈津は隣の部屋にいる兄貴達に聞こえないように声を押し殺して泣いていた。
俺がわざと奈津を利用して歩美に妬くかわからないヤキモチを妬かせたいと思わなければ、こんなことにはならなかった。
そして俺自身も、何回も聞かなくていい「健太の彼女です」という自己紹介を聞かずに済んだはずだ。
泣いている奈津を見て、俺も泣いてしまいたかった。
その後奈津とは何も話さないままだった。奈津は泣き止んですぐに帰って行った。
最後に玄関前で謝ったが、彼女は目を赤くしたまま笑うだけだった。
それからというもの、俺は歩美が家に来てもあまり話さなくなった。歩美の家庭教師はテストが終わったからもうなくなったし、兄貴の弟ってだけでそれ以上は別に何もない。
奈津の一件で気まずいってのもあったけど、それ以上にこれ以上好きになって傷つくのが嫌だった。
学校ではまた奈津と話さない日々が戻ってしまい、複雑な気持ちだった。本当はもう一度謝りたかったが、きっと何度も謝罪される方が奈津も辛いだろう。それに俺がごめんと言ったところで状況は変わらない。
そしてそのまま俺と兄貴の誕生日がある夏休みに突入した。
俺と兄貴は三歳差だが、誕生日が八月で一日違いだ。誕生日は俺の方が一日だけ早い。
夏祭りって大体やる日と時期は毎年変わらないが、中2の夏休みは俺の誕生日が夏祭りと被っていた。
毎日の部活で疲れていたので、サッカー部の奴らと息抜きも兼ねて大人数で行くことになっていた。
正直人混みが苦手な俺はあまり楽しみではなかったが、サッカー部のノリの良さは校内の部活で1番と言われている。誕生日だから奢ってやるという皆の言葉に甘えて行くことにした。
夏祭り前日でもあり、俺の誕生日前日でもあるその日。歩美は家に遊びに来ていた。どうやら次の日の夏祭りに兄貴と行くらしく、母親が浴衣を着せてあげるから選んでもらうために呼んだらしい。
母親は三人姉妹の末っ子で、姉2人もうち同様に男の子しか生まなかった。そのためにいっぱいある浴衣の使い道がなくなり、なぜか俺の家に置いてあったのだ。
浴衣のことはよく分からないし値段も知らない。でも家にある浴衣は高かったと思う。浴衣の数え方も知らないが、五着か六着はあった。
下駄とか巾着とか色々揃っていて、俺も兄貴もそんなものがあるとは知らなかったから歩美と一緒に珍しくて見ていた。
歩美「涼太も夏祭り行くの?」
俺「部活の奴らと」
歩美「何着てくの?」
俺「私服」
歩美「そっか。明日会ったら、声かけてね!私も声かけるから」
本当は家に男用の浴衣も甚平もあった。でも、別に俺は彼女と出かけるわけじゃないから着る必要はない。兄貴が明日着ることになっている。
それよりも、俺の誕生日が明日ということを歩美が知らない方が辛かった。素っ気ない返事しかしなかったのは、多分このときいじけていたんだと思う。
俺も歩美が好きなのに、歩美は兄貴のことしか興味がない。兄貴が彼氏なのだから、当たり前だと自分に言い聞かせて納得させようとするが無理だ。
せめて誕生日くらいは、歩美に一言で良いから祝って欲しい。
そんな願いを歩美が知るわけもなく、無情にも俺の誕生日がやって来た。
朝起きると最初に来ていたメールはサッカー部の奴で、後は奈津からも来ていた。他にも先輩である康平くんから来ていたりと、嬉しかったのを覚えている。
しかし、連絡先を交換していない歩美からメールが来ているわけがなかった。
当たり前だが、絶望的な気持ちになった。明日は兄貴の誕生日で、歩美はきっと可愛いデコレーションメールを送る。その差はなんなんだろうと朝から憂鬱になったのだ。
でもそんな素振りを見せるわけにもいかず、俺は部活に行き、その後急いで帰って夏祭りへ行くためにサッカー部の奴らとの待ち合わせ場所に向かった。
家では歩美が母親に着付けをしてもらっていたが、俺は黙って自室で着替えを済ませて出て行った。
理由は分かると思うが、歩美に会いたくなかった。
兄貴のために可愛くなった歩美。俺の誕生日を知らずにいつも通りの他愛もない会話をすると考えるだけで嫌だった。だからそれを避けるために逃げたのだ。
友達「おい、涼太!」
俺「おう!遅れてごめん。皆揃ってる?」
友達「大丈夫。じゃあ、行くか」
地元の神社で行われる夏祭りは意外と規模が大きかった。俺は小さい頃から行っていたが、何度行っても飽きない。
この夏祭りに歩美が参加するのは初めてだったと思う。地元の奴らが結構来るので、花火が上がる頃になると神社の境内に集合するのが決まりみたいになっていた。
だから今回も俺達サッカー部のメンバーはある程度屋台の料理を食べて満足すると、境内に向かった。
やはりそこには中学の友達が集まっていて、まるで学年集会だった。それくらい集まっていたのだ。
俺達サッカー部はお賽銭箱の前に座って買ってきた焼きそばやじゃがバタを食べながら花火を待った。
するとそこに、同じ学年の水口って女子がやって来た。
夏祭りで騒ぐためにやって来た俺らと違い、水口はきちんと浴衣を着ていた。
水口ってのは当時吹奏楽部だったと思う。おしとやかで女の子らしく、奈津とは真逆のタイプだった。
そのために、よく男子の間で話題に上がっていた。そんな水口がサッカー部の集まる輪の中にやって来たので、一瞬全員が動きを止めて水口の行動を気にしていた。
すると水口は唯一視界に入れることなく焼きそばを食っていた俺の横に座って来た。それを俺はミシッて鳴った社の木の音で気づいたくらいだ。
水口など眼中になかった。
水口「隣良いかな?」
俺「えっ?あっ、まあ…いいけど」
この時珍しく冷やかすことをしなかったサッカー部連中は本当に役立たずだった。というか、水口の堂々とした行動に、皆が冷やかしにくくて黙ってしまったのだ。
こうなると水口の思うツボだった。彼女は夏祭りの雰囲気も手伝ってか、めちゃくちゃ至近距離に来やがった。
もし歩美に出会う前の俺だったら惚れていたと思う。中学生のくせに、浴衣姿に色気があったのだ。
水口「涼太くんって、奈津ちゃんと付き合ってるの?」
隣に来た水口を無視して奢ってもらった料理をひたすら食べる俺だったが、その言葉に思わず食べてた焼きそばを吹きそうになった。