204:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:53:38.69 ID:+beSXCVE0
「それじゃあ僕はちょっとだけ出掛けて来ます。すぐに戻りますから、その間にやっておいてくださいね。」
そういうと先生は、床に置いてある紙袋から見た事の無い大きい札束を取り出し、そそくさと玄関の方に歩いてく。
「ちょ!ちょっと先生!」
私は慌てて先生を追いかけた。
「どこにいくんですか?」
「借金、返してきます。お母さんはもう何もしてこないでしょうし、一人でも大丈夫でしょう。」
「返しに行くって…先生がですか?」
私は驚いて聞き返した。
「はい。だってさっさと返しちゃったほうがいいじゃないですか。」
「でも…」
「大丈夫、〇〇さんとは知り合いですから。心配しないで。」
「知り合い!?」
あのガラの悪い店長と、人の良さそうな先生が知り合い…!?
私はさっきよりもっと驚いて聞き返した。
「そうですよ。僕、こう見えて顔が広いんですよ。まぁ詳しいことは後で話しますから。あとは宜しく頼みます。」
先生は驚きの余り固まっている私の頭を撫でると、そそくさと外に出て行った。
206:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:55:21.73 ID:+beSXCVE0
玄関の閉まる音で我に返り、そーっとリビングに戻ると、母はまだ椅子にじっと座っていた。
どうしていいのかわからず、私は部屋を片付け始めた。
酒瓶を拾うたびに、むせ返るような臭いで吐き気がする。
私は我慢できなくなって、台所の窓を開けた。
ふとシンクの中を見る。
私が出て行ってから何も食べていなかったのか、シンクの中は意外と綺麗だった。
あらかた片付け終わったところで、私は床に雑巾をかけ始めた。
「……なぎ…」
一心不乱に雑巾をかけていると、母が私を小さく呼んだ。
手を止めて、ゆっくりと母を見る。
母は泣きそうな顔でぼーっと私を見ていた。
「…なに?」
私が聞き返しても、母は「…なぎ…」としか答えない。
私は立ち上がって手を軽く叩くと、そっと母の前にしゃがみこんだ。
「…なぁに?」
母を見上げながら、優しく聞く。
途端、母の顔がクシャッと歪んで、涙をポロポロと流し始めた。
私は何故か急に切なくなって、母の手をそっと握った。
「なぎ…なぎ…」
母はそう言いながら、泣き続けている。
いつの間にか、母に対する怒りも嫌悪感も消えていた。
私は泣いている母をそっと抱きしめた。
208:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:57:04.57 ID:+beSXCVE0
母は私にしがみついて、泣き続けている。
「なぎ……なぎ…」
泣きながら、ひたすら私の名前を繰り返している。
「…いいんだよ。もういいから…」
私は宥める様に、母の背中をさすり続けた。
暫らくそうしていると、母の鳴き声はだんだんと小さくなっていき、私はそっと母を放した。
泣いて目を真っ赤にしている母の表情は、心なしか穏やかに見えた。
今までの母とは別人の様に、優しい目で私を見ている。
私はそんな母にニッコリと微笑み返すと、「掃除…しよ?」と言った。
母も少しだけ微笑んで、小さく頷いた。
209:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:01:16.14 ID:+beSXCVE0
母と無言で掃除を終え、私は荷物をまとめに2階に上った。
たった5日帰ってきてなかっただけなのに、随分と懐かしく感じる。
あらかた身の回りの物をカバンに詰め終わると、私はどっとベッドに横になった。
大きく深呼吸をすると、吐いた息の分だけ毒気が抜けていくようで、心地よくなっていく。
私は、様々な事を思い出していた。
小さい頃、母がまだ優しかった時の事。
いつからかイジメられるようになり、暗くなるにつれて母との会話が無くなっていった事。
疎遠になっていきつつも、何故か小学校の卒業式に母は出席していた事。
ふと、母は寂しかったんじゃないかと、そう思った。
18で私を産み、世間からは好き放題言われ、実の両親からも死ぬまで会っては貰えなかった。
そんな中で母は、私と同じように荒んで行ったのではないか…
先生のように、優しく包み込んでくれる人が居たら、母の人生も別のものになっていたのかも知れない…
なんとなく、そう思った。
今まで漠然と母親としか見えていなかった母が、寂しい一人の女性に思えてきて、少しだけ切なくなる。
でももう大丈夫…母はさっき穏やかな顔をしていたじゃないか……きっとこれからはもう大丈夫…
私はそう確信してガバっと起き上がると、鞄を手に取り再びリビングに戻った。
211:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:05:12.54 ID:+beSXCVE0
リビングで母と二人静かに座っていると、玄関が開く音がした。
急いで玄関に向かう。
「お待たせしました。用意、出来ましたか?」
先生は私を見ると、ニコッと笑ってそう言った。
「はい、掃除もちゃんとしました。…先生は大丈夫でしたか…?」
「はいこの通り。無事に帰ってきましたよ。…お母さん、どうですか?」
私はリビングの方を振り返った。
「もう…大丈夫だと思います。」
「そうですか、それならよかった。……じゃあ行きましょうか。」
「あ、荷物取ってきます。」
「あ、渚さんちょっと待って」
リビングに戻ろうとした私を呼び止めると、先生は一枚の封筒を差し出した。
これは?という目で先生を見る。
「領収書です。念の為、書いてもらいました。お母さんに渡してあげてください。」
あぁなるほど…そう思いながら封筒を受け取ろうとして、私はドキッとして固まった。
差し出した先生の手のひらが、傷だらけで真っ赤になっている。
ビックリして先生を見た。
先生は相変わらずニッコリ微笑んで、「早く」とだけ言った。
「先生…手…」
「いいから、早く。僕は車に行ってますから。」
先生が後ろ手に、玄関を開ける。
私は封筒を受け取ると、慌ててリビングに戻った。
214:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:08:45.71 ID:+beSXCVE0
荷物をまとめた鞄を肩にかけ、母に封筒を渡す。
「…領収書だって。先生が返しに行ってくれたから…」
母はまた泣きそうな顔になって、封筒を受け取った。
「じゃあ…私、行くから…」
そういって母に背を向ける。
玄関でワタワタと靴を履いていると、母は慌てたように「なぎ!」と私を呼び止めた。
振り返ると、母が何やら言いたそうに口をアワアワとさせている。
「…なぁに?」
優しく聞くと、母は少し泣きそうな顔で「またね…」と小さく言った。
私は少しだけ微笑んで「うん。…またね」と返事を返して家の外に出た。
家の前では、先生が車に乗って待っていた。
私は後部座席を開けて荷物を放り込むと、そのまま後ろに座って扉を閉めた。
何故だか、助手席に座るのは気が引けた。
先生は私がしっかり座ったのを確認すると、「さーて、帰りましょうか。」と言って車を出した。
来た時と同じように、二人とも何も話さなかった。
218:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:14:48.52 ID:+beSXCVE0
はい、続けます。
家に帰りリビングに入ると、先生はフワーッと大きく背伸びをした。
「何だか大変な一日でしたね~。あー疲れた。」
そう言いながら、ニコリと私を見る。
私はずっと気になっていた事を質問した。
「…手…どうしたんですか…?」
「ん?手?」
先生は自分の両手を広げて、不思議そうに眺めた。
「怪我しただけですよ。傷も深くないし、ほっときゃ直るでしょう。」
そう言うと、ハハっと恥ずかしそうに笑った。
「違います!そうじゃなくって…どうして怪我をしたのか聞いてるんです。」
私が少し強く言うと、先生は困ったように苦笑いしながら、ドカっとソファに腰を下ろした。
「いやぁ…お金を返した後領収書くれって言ったら、じゃあコレを握れって小さいナイフの束みたいのを差し出されたんですよ。」
先生は楽しい思い出を語るように、ニコニコしながら話している。
「だからそれをこう…ギュッと。そしたらいきなり引っこ抜くもんですから……まぁこんなもので済んで良かったですよ。」
先生が笑う。
私はニコニコしながら握ったであろうその時の先生を想像して、思わず顔をしかめた。
「大丈夫、大した事無いですから。心配しないで。」
明るく言う先生の声に、私の目から涙が溢れた。
220:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:17:02.33 ID:+beSXCVE0
先生は音楽教師。手は商売道具のような物だ。
一歩間違ったら、先生は一生ピアノが弾けなくなっていたかもしれない。
それなのに先生は相変わらずニコニコして、気にも留めてる気配が無い。
「ごめんなさい…先生ごめんなさい…大事な手なのに…」
私は複雑な思いで胸が一杯になって、謝ることしか出来なかった。
立ったまま、泣きながら先生に謝り続ける。
「大丈夫ですって。……それに僕の方こそ、貴女に謝らないといけません。」
「…どうして…ですか?」
私がシャックリをしながら聞くと、先生は凄く神妙な面持ちで下を向いた。
「…貴女をお金で買うような事をしてしまいました。……もう二度としませんから…許してください。」
私は泣きながら、ブンブンと首を振った。
「…先生の…大事な…お金を……先生のお父さんが…遺してくれた…大事な……」
息が詰まって言葉にならない。
「いいんです。それは僕が勝手にやってしまったんですから。…お願いだから、泣き止んで、謝りますから…」
先生が段々と困った顔をしていく。
それでも益々涙は止まらなくなっていき、私は幼い子供のようにわんわんと泣き続けた。
222:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:19:44.53 ID:+beSXCVE0
「あぁもう…泣き虫なんだから……」
先生は優しくそう言って立ち上がり、私をぎゅうっと抱きしめた。
「ごめんなさいぃ…」
抱きしめられると、もっと申し訳なくなってくる。
「だから大丈夫だってば。ほら、泣かないで。お願いだから。」
先生は困ったように笑う。
それでも私の涙は止まらなかった。
「大切な人を守るためなら、手の1本や2本、どうって事ないじゃないですか。渚さんだって、そう思うでしょ?」
先生はちょっと照れくさそうにそう言った。
私はその言葉で更に胸が苦しくなって、立っていられなくなった。
先生は「おっと…」と言いながら、私を支えるように一緒に座り込んだ。
223:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:22:19.07 ID:+beSXCVE0
あぁ先生が困ってる…泣き止まなきゃ……もう何で涙が止まってくれないの…
泣きながらもどこか冷静な頭の片隅で、私はずっとそんな事を考えていた。
「……ほら…こっち向いて。」
優しくそう言われて、嗚咽を堪えながら先生を見つめる。
先生は優しく微笑むと、フッと顔を近づけた。
先生の唇が、私の唇に軽く触れる。
私の頭は、途端に真っ白になった。
息をする事も忘れて、私は自然に目を閉じた。
先生の顔が、スーっと離れる。
私は思い出したように、そっと息を吐いた。
薄っすらと目を開けて、先生を見る。
「…泣き止んだ。」
先生は私と目が合うと、ニコッと微笑んだ。
「…せんせい…」
私がやっとで呟くと、先生は恥ずかしそうにクスっと笑った。
「その…先生って呼ぶの、そろそろやめにしませんか?」
私は少し困った顔をした。
少しだけ考えて、先生に小さな声で聞き返す。
「……じゃあ何て呼べばいいですか?」
先生もちょっと困った顔をしながら笑った。
暫らくぼーっと何処かを見て黙り込んでいたが、またフッと笑うとまっすぐ私を見つめた。
「んー………わからない…」
そう言いながら、ゆっくりと顔を近づけてくる。
私はまた、目を閉じた。
224:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:25:32.80 ID:+beSXCVE0
その日、私は初めて先生と一緒にベッドに横になった。
先生はやらしい事は一切せず、ただ向き合った私を抱きしめているだけだった。
安心感と暖かさで心はすごく安らいでいたのに、私はなかなか眠ることが出来ず「先生…」と小さく声をかけた。
「…なんですか?」
先生も起きていたようで、すぐに返事が返ってきた。
「先生と〇〇さんは…どういう知り合いなんですか?」
「このタイミングでそれを聞きますか。」
先生はプッ吹き出した。
「……あれは嘘です。」
驚いて先生を見上げる。
「まぁ…名前と何をしてる人か位は知っていましたけど。」
「何で嘘ついたんですか。」
私が少し怒った様に言うと、先生は苦笑いした。
「…まぁ、もういいじゃないですか。」
先生は困ったように笑いながらそう言うと、私をグッと抱き寄せた。
「でも…」
「いいからもう寝ましょ。これ以上このままで起きてたら僕、貴女に何するか解りませんよ?」
私は急に恥ずかしくなって、布団の中に顔を埋めた。
「…もうこれからは、貴女に怖い思いも、辛い思いも、絶対にさせませんから。」
先生は私の頭を、私が寝付くまでずーっとずーっと優しく撫で続けていた。
225:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:28:48.14 ID:+beSXCVE0
それから……。
地元では予想通り噂になったけれど、私は先生と一緒に暮らし続け、先生の転勤にも付いて行った。
最初こそ仕事を探したものの、先生の職業柄移動が多く、
すぐに辞めてしまう事を考えて先生と話し合った結果、私は職探しを止めた。
先生の傍で、穏やかな日々を過ごす。
私が20歳になると、先生は「結婚…してみませんか?」と私に言った。
私は喜んで「ハイ」と返事をした。
結婚式はせず入籍だけ済ませ、二人だけで記念写真を撮った後、私達は新婚旅行がてら短い旅行をした。
そこでやっと先生は、初めて私を女性として抱いた。
籍を入れて一年後。
33歳になった先生は教師を辞めて私の故郷に程近い場所に家を買い、そこでピアノ教室を開いた。
丁度その頃、あの日以来会っていなかった母から連絡が届いた。
全てを一度リセットした母は、今は知り合いの伝で小さな事務所の事務員をしているらしい。
久しぶりの電話越しの母の声は、昔とは違って随分と落ち着き、そして凄く幸せそうだった。
私も先生と結婚したことを告げると、母は電話越しに泣いていた。
それからはちょくちょく、母とは今も電話で連絡を取り合っている。
226:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:32:01.91 ID:+beSXCVE0
私は未だに先生の事を「先生」と呼んでいる。
先生は相変わらずニコニコしていて、私達の会話は昔から変わらず敬語のまま。
夫婦で敬語なんて変…と友人達は笑うけれど、これは多分、もう一生直らないだろう。
先生と出会ってから、気がつけばもう十数年。
長い長い時間をかけて、本当に大事な人と結ばれ日々を過ごしている今、私はふと自分の人生を振り返り、幸せを噛み締めている。
227:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:34:48.68 ID:+beSXCVE0
書き溜めていたのは以上です。
急に尻つぼみに終わってしまって、申し訳ありません。
最近の事を書こうとすると、何故か指が止まってしまい、文章にはとても出来ませんでした。
長い時間、私の拙い思い出話にお付き合いいただき、ありがとうございました。
229:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:36:49.33 ID:ZOSge41I0
おつかれさまでした!
230:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:37:06.01 ID:LUqPOmqkP
乙!
質問いいかな?
どうして書く気になったのか教えてほしい
いや、オチ?で子どもが出来たとか入籍したとか、そういうんじゃなかったから
どうして書くつもりになったのかなって思って
232:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:39:57.93 ID:+beSXCVE0
皆さん、読んでいただきありがとうございました。
私は今、幸せに過ごしています。
>>230
どうして書く気になったのか…そう言われると上手く説明が付きませんが、
ある日ふと、小学生にピアノを教えている主人を見ていて、何故だか自分の昔の事を思い出したのです。
あんなこともあった…こんなこともあった…
そう色々考えているうちに、自然と昔を振り返りながら、少しずつ書き始めていました。
231:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:37:16.21 ID:3at4oFrli
うわぁぁぁぁあああ(;_;)
233:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:40:17.14 ID:QDHvM6y80
乙
今も幸せなんだね
一番偉いのは常に先生に対しては事実を伝えていたところ
何処か一つのタイミングがずれていたら、こうはならなかったよね
234:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:43:27.70 ID:+beSXCVE0
>>233
はい。
あの時少しでもタイミングがずれていたら、私の人生は母と同じような事になっていたかもしれません。
235:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:44:33.06 ID:Fv6goezV0
お疲れ様でした!
久々に胸きゅんしたわ
236:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:46:36.52 ID:+beSXCVE0
投稿してみようと思い立ったのは、きっと誰かに聞いて欲しかったんだと思います。
誰にも言えなかった過去の事、私は今すごく幸せだぞ!という思いを、吐き出したかったんだと。
皆さんが聞いてくれたお陰で、胸がスーッとした気持ちでいます。
本当にありがとうございました。
240:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:49:51.85 ID:+beSXCVE0
皆さん、本当にありがとうございました。
私も皆さんの幸せを、僅かながらですが祈らせていただきたいと思います。
それでは、皆さんさようなら。
長い時間、ありがとうございました。
241:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 19:51:02.24 ID:Ai/XBJ160
すばらしかった
フィクションでもいい
ノンフィクションだったらもっといい
心が温まりました
242:レーザーキャノン砲(偽者) ◆pxoCBM7Q4IPk :2012/06/07(木) 19:53:31.62 ID:bWtJJYtw0
>>1さんお疲れ
末永く御幸せに
260:名も無き被検体774号+:2012/06/08(金) 00:10:39.20 ID:GvbRfn7h0
幸せな話をありがとう