186:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:23:42.26 ID:+beSXCVE0
私は驚いて聞き返した。
「…母に…ですか?」
「はい。やっぱりこのまま、何も言わずにいるのはちょっと気が引けますし。」
体の奥底が、嫌悪感でゾワゾワする。
「でも…あの人には何も言わなくて、このままでもいいと思うんですけど…」
「やっぱりそういう訳にも行きませんよ。きっと渚さんの事を探してるでしょうし…」
私は首を振ると、それだけは絶対に無いと先生に言った。
「探してる訳がありません。多分家で飲んだくれてます。」
「まぁそうでしょうけど…ただ、違う意味では探してるかもしれませんし…」
違う意味で探している…私はその言葉にハッとした。
あそこまで執念深く自分を傍に置こうとした母だ。
確かに心配とは別の意味で、私を探しているかもしれない。
「……わかりました。」
私は暫らく黙りこんだ後、小さく頷いた。
「大丈夫、何があっても貴女には指一本触れさせませんよ。だから安心して。」
先生は私の手を両手で包むと、ニコッと笑ってそう言った。
187:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:26:19.28 ID:+beSXCVE0
翌朝。
前日に不安と緊張でなかなか寝付けなかったせいで、私はいつもより遅く目を覚ました。
時間は10時過ぎ。
慌てて飛び起きリビングを見ると、先生の姿はどこにもなかった。
あれ?っと不思議に思いつつ、顔を洗って出かける準備をしていると、先生はなにやら大きな紙袋を持って帰ってきた。
「あぁ、おはようございます。しっかり寝れたみたいですね。」
ちょっと恥ずかしくて「すみません…」と返事をすると、私は紙袋に目をやった。
視線に気がついて、先生がガサゴソと紙袋を漁る。
「渚さん制服しか持って無かったでしょう?とりあえず買ってきてみました。」
そういいながら、何枚かの女物の洋服を出す。
パーカーに何枚かのシャツにスカートとジーパン…
いずれも黒系統の服でお世辞にも可愛いとは言えなかったが、その選択が先生らしくって私はフフっと笑った。
「サイズがよく解らなかったから店員さんに身長とか大体で説明したんですけど…大丈夫かな?」
先生は恥ずかしそうに笑う。
私はその中からジーパンとパーカーを手に取って広げると、先生に向かって頷いた。
「あぁよかった。流石にその恰好で行かせる訳にはいきませんから。」
「じゃあ私、着替えてきます。」
立ち上がった時、まだ紙袋の中にもうひとつだけ小さな紙袋が入っているのに気がついて「それは?」と先生に質問する。
「あぁこれ?手土産です。会いに行くのに手ぶらって訳にもいかないでしょう?」
私は「そんなに気を使わなくても…」と言って苦笑いをした。
188:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:28:34.70 ID:+beSXCVE0
実家に向かう車の中で、私は不安と緊張で押しつぶされそうになっていた。
先生はラジオから聞こえる曲に合わせて、のん気に鼻歌を歌っている。
このまま家に誰も居ないとか…ないかなぁ…
そんな事を考えていると、車はあっという間に実家に到着した。
「さ、行きましょうか。」
そう言われてドキドキしながら車を降りる。
実家のドアに手を掛けると、私は暫らく固まってしまった。
先生がノブを握っている私の手の上に、後ろからスッと自分の手を乗せる。
「大丈夫だから。ね?」
私は頷くと、そっと静かに扉を開けた。
相変わらず、テレビの音だけが聞こえる。
私はゆっくり靴を脱ぐと、先生が入って来た事を確かめてからリビングに進んだ。
「…お母さん…」
私がそう声をかけると、相変わらず酒瓶に囲まれて横になっていた母は、かったるそうにこちらを見た。
そして私だと解ると、なにやらギャーギャー叫びながら物凄い速さで立ち上がり私に向かってくる。
ビクッとして身構えると、私は凄い力で後ろに引っ張られた。
189:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:30:12.42 ID:+beSXCVE0
驚いて硬直したまま、恐る恐る前を見る。
後ろにいたはずの先生が、母の振り上げた両手をがっしりと掴んでいた。
先生の体越しに、先生を見つめている母のひどく驚いた顔が見えた。
「…お邪魔します。」
いつものようにニコニコしてるであろう先生の声がした。
腕を掴んだまま先生はジリジリと前に進み、ダイニングテーブルの椅子に母をドスッと座らせる。
母はよっぽど驚いたのか、抵抗する事無く大人しく椅子に座っていた。
先生は座っている母から2.3歩後ずさると、ゆっくりと板の間に正座をした。
「さて……渚さん、そこの紙袋持ってきて。」
そう言いながら私に振り返り、自分の隣の床をポンポンと叩く。
私は慌てて紙袋を取ると、先生の横におひざまを付いた。
何やらずっしり重たい紙袋を渡しながら、先生の顔をそっと見る。
相変わらずニコニコしている先生は、「ありがとう」と言うと真っ直ぐ母に向きなおした。
190:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:32:28.22 ID:+beSXCVE0
「初めまして、堺といいます。お嬢さんを戴きに参りました。」
母と私はビックリして先生を見る。
先生は動じる事無くニコニコしながら母を見つめている。
一瞬の間を置いて、母は「はぁぁぁあ!?」と大きな声を出した。
「ですから、お嬢さんを戴きに参りました。」
「あんた、なにいってんの?」
母が不機嫌そうに先生を睨みつける。
「お嬢さんはもう大人です。いい加減、開放して頂きたいと思いまして。」
「はああああああああ!?!?」
先ほどより大きく母が言い返した。
「大人だからどうしたって!?私はソイツのせいで人生台無しになったんだ!勝手に出て行かれたら困るんだよ!!」
青筋をビキビキと立てながら、母が絶叫する。
それでも先生はニコニコしながら話を続けた。
「困る?どうしてですか?お嬢さんが居ても居なくても、お母様の人生は変わらないでしょう。」
「私はソイツのせいで山ほど借金したんだよ!!!!それなのにノコノコ出て行くだぁ!!??」
「借金?借金があるからお嬢様が出て行かれると困るんですか???」
母の声が大きくなる度、私は今にも飛び掛られそうでビクビクしていた。
「お嬢さんはアナタの奴隷じゃありませんよ。それに…お嬢さんが自分で働いて生活していたのを、僕は知っています。」
191:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:35:57.81 ID:+beSXCVE0
母は何も言い返せないのか、ワナワナと唇を震わせながら先生を睨みつけている。
「母子家庭ですから、小中と学費は免除だったでしょう。それ以降の高校は、奨学金だったと伺っていますが。」
先生はわざとらしく首をかしげた。
「借金があったとすると、お嬢さんに関わっているのはその時の奨学金だけですよね?返していくのはお嬢さん本人です。お母様には関係ないですから安
心なさってください。」
「それ以外でもかかってんだよ!!!!!!私は18年間ソイツ育ててきたんだ!!!!!」
「…生活費……という事ですか?」
「そうだよ!!!!!」
母は勝ち誇ったようにニヤリと笑う。
「それに今まで苦労してきたんだ。ソイツには私の面倒見る義務があるんだよ。」
「義務……ですか。…要するに、お嬢さんが家にお金を入れなければ生活が成り立たない…そういう事ですか?」
母はニヤニヤしながら頷き、先生の顔をじーっと見ている。
が、次の瞬間急に訝しげな顔をしたかと思うと、驚いたように先生を指差した。
「あんた…確か渚が小学校の時の……」
「え?あ、はいそうですよ。」
先生はニコニコしながら頷いた。
「ただのロリコン野郎じゃねーか!!!!!」
母は爆笑した。
何故か先生も一緒になって笑っている。
状況がカオス過ぎて、意味が解らない。
「ノコノコ出てきて首突っ込んでんなよ。さっさと出てけロリコン野郎。」
母はニヤニヤしながらそういった。
192:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:38:04.53 ID:+beSXCVE0
「嫌です。」
先生はニコニコしながらキッパリとそう答える。
母の顔はまた一瞬で般若のようになった。
「テメェには関係ねーだろ!さっさと帰れ!!!」
「ありますよ。さっき言ったでしょう?お嬢さんを戴きに来ましたって。」
先生はわざとらしく、ヤレヤレ…といった感じで笑いながら返事を返す。
そんな様子に、母の怒りはますます上っていくみたいだった。
「渚をもらうだぁ?」
「はい。ですからお嬢さんをお手元から離して頂きたいんです。」
先生はニコニコしている。
母は睨むように私と先生を交互に見ている。
私は母と目を合わすのが怖くて、視線をそらした。
「人の男寝取るような、こんな糞女が欲しい…ねぇ?」
母が馬鹿にしたように、嫌味ったらしく言った。
「あんたさ、私が今なんでこんなになってるか解ってんの???」
先生が首をかしげる。
「コイツが私の旦那を寝取ったんだよ。自分の父親になった奴を…汚らしいこの糞女が。」
「…それで?」
先生がキョトンとした感じに聞き返すので、母がまた段々とイライラしていくのがわかる。
私は居なくなった男の事を思い出し、吐き気と嫌悪感でたまらずに下を向いた。
違う!寝取ってなんかいない!私はあんたの男に襲われたんだ!
そう思っても、何故だか口に出せない。
私はただ下を向いて、じっと堪えている事しか出来なかった。
193:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:40:33.65 ID:+beSXCVE0
母がいやらしい声でマッタリと話し続ける。
「やっと人生やり直せると思ったらコイツに全部ぶち壊されたんだよ。コイツのせいで…」
下を向いていても、母が私を睨みつけているのがわかる。
好き放題言われて悔しいのに、訳のわからない喉の痛みが邪魔をして声が出せない。
「私は全部失ったんだ。コイツのせいなんだから、これから償っていくのは当然だろ?」
「償い…ですか。」
「そうだよ。たんまり稼いで楽させてもらわなきゃ、ねぇ?渚。」
甘ったるい声で名前を呼ばれて、私はビクっとした。
「大事な大事なお母さんだもんねぇ?自分のせいでお母さんこんなになっちゃったんだもんねぇ?」
語尾が段々と、いつもの母に戻っていく。
頭にガンガンと響いてくるその声に、私はまた考えるのが嫌になって来る。
頷かなきゃいけない……だんだんとそう思えてくる。
「なぎはお母さんが可哀相だねぇ?お母さんを幸せにしてあげなきゃいけないよねぇ?」
母の声が本格的に猫撫で声になった時、先生はハァっと大きく溜め息をついた。
「…話は以上ですか?」
先ほどまでとは別人の様な、先生の冷たい声がした。
197:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:43:28.66 ID:+beSXCVE0
その声が凄く怖くて、私はそっと先生を見た。
先生はゾッとするような薄ら笑いで、母を見つめている。
「はぁ?」
「話は以上ですか?このまま不幸自慢をされ続けても困りますので。」
先生が鼻で笑う。
母はまた、般若のような顔に戻っていった。
「不幸自慢…?」
「ええ、そうですよ。聞いていたら全部自業自得じゃないですか。お嬢さんはアナタのせいで、もっと辛い思いをしていますよ。」
「はあああああああ!?」
「結局のところ、アナタは金づるが欲しいんですね。何だかんだ色々言っていますが、僕にはそうとしか聞こえません。」
「…わかった風なこと言ってんじゃねーぞ?」
母が今にも飛び掛りそうな勢いで、拳を握り締めている。
「わかりますよ。僕はアナタの様な人を、よく知っていますから。」
母の歯軋りが聞こえる。
「いくら欲しいですか?1億でも2億でも、好きなだけ差し上げますよ。アナタが彼女を解放してくれるなら。」
先生の冷たい声に、その場が凍りつく。
そんな大金をいとも簡単に口から出す先生に、私は少し恐怖を覚えた。
198:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:46:05.96 ID:+beSXCVE0
母は予想もしなかった言葉に、戸惑って固まっているようだった。
「借金もある…そうおっしゃっていましたよね?もしかして〇〇さんのお店にですか?」
固まっていた母はその名前を聞くと、一瞬だけビクッとした。
「彼女から仕事の話をされてまさかとは思いましたが…〇〇さんのお店ですよね?この辺りでストリップやってるのはそこくらいですから。」
「それは…」
母はさっきまでの威勢が嘘のように、急に大人しくなった。
「大方、前払いで幾らか貰ったんでしょう。彼女が居なくなって困るのは、そのせいじゃないんですか?」
〇〇さんって誰?あのお店のガラの悪い店長?
二人の間では淡々と話が進んでいく。
私は一人だけついていけなくて、混乱していた。
「〇〇さん、怖いですからね。このまま彼女が居なくなってしまったら、何をされるかわからない。」
母は怯えた顔をして床を眺めている。
「…幾ら、頂いたんですか?それさえ返せば、もうアナタが困る理由は何処にも無くなります。」
だが、母は黙ったまま答えない。
先生はまた大きく溜め息をつくと、持ってきた紙袋を母の前に差し出した。
「2千万入っています。お嬢さんを戴きに来た手前、結納金だと思って持って来ました。」
2千万!?
私と母は驚いて先生を見た。
先生は相変わらず冷ややかに微笑みながら、母だけをじっと見つめていた。
200:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:48:24.32 ID:+beSXCVE0
「いくらなんでも、それだけあれば借金返せますよね?」
母は呆然としながら、小さくコクリと頷いた。
「日取りの取り決めも無く、勝手に持ってきてしまい恐縮ですが、どうぞお納めください。」
先生が頭を下げる。
私は慌てて止めに入った。
「先生ダメです!そんな大金…」
「ダメじゃありません。これは結納金なんですから、普通の事ですよ。」
私を遮るように強く言うと、先生はニコッと微笑んだ。
でもすぐ冷ややかな笑顔になって、また母をじっと見つめる。
「それにこれだけあれば、当面は生活していけますね?アナタは僕とさほど歳も変わらない。まだいくらだってやり直しがきくでしょう。」
母は何も答えない。
202:名も無き被検体774号+:2012/06/07(木) 18:50:36.01 ID:+beSXCVE0
「正直、僕はアナタが許せません。でも渚さんにとっては大事な母親のようです。このまま捨てるように逃げても、彼女はずっと後悔し続けるでしょう。
だから僕はアナタが憎くても憎みきれないし、捨てたくても見捨てられないんですよ。」
自分でも気がつかない振りをしていた本心を見透かされて、私の胸は何故だかグッと痛んだ。
黙り込んでいる母に目をやると、母も複雑な表情で私を見つめていた。
「…それで身の回りを整理して…やっていけますね?」
先生が言い聞かせるように言うと、母は微かにコクリと頷いた。
母が頷くと、先生はやっといつもの顔に戻った。
「じゃあ、これでもう大丈夫ですね。……渚さん。」
急に名前を呼ばれて、私は慌てて返事をした。
「自分の荷物をまとめなさい。それから…」
先生は正座のまま、辺りをぐるりと見渡す。
「少しだけ、ココを片付けてあげなさい。このままじゃ、いくらなんでも酷い有様ですから。」
え?っと思って先生を見る。
相変わらず穏やかにニコニコ笑っている先生の顔を見ていたら、私の心も不思議と穏やかになっていく。
私は呆けている母をチラリと見ると、ハイと微笑み返した。