もともと歌舞伎町の都市計画を立てた人は、「道義的歓楽街」として街を発展させていくつもりだったらしい
道義的なんて言うくらいやから、少なくともいやらしい街にしようとしてたわけじゃないってことは察しが付くわな
でもワイが受けた授業によると、この説は正しくないらしい
なぜなら、1959年の地図を見てみると、歌舞伎町ではセックスワークがまだ主流になっていなかったことがわかるから
そもそも売春防止法成立以前から、花園には青線(非合法の売春)地帯があったらしく、このことからも、新宿2丁目から流れ込んできたことが原因ではないとわかるんや
水商売は多いけど。
>>3を参照してくれ
あ、なるほど。
性風俗という狭義の風俗じゃなくて、風営法の広義の風営ね。
すまん。
商店街振興組合の名簿を見てみると、1956年ごろはまだ普通の街のような姿だったらしい
今では想像がつかんけど、豆腐屋とか文房具屋なんか普通にあったみたいやで
このころの商店街組合は、歌舞伎町で営業している店なら基本的にどんなものでも会員として認めていたんやが、なんと風俗営業店まで名簿に載せていたんや
1963年の名簿には、トルコ風呂(今で言うソープ)が3軒も記載されとる
当時のトルコ風呂は本番サービスがありやったから、完全に非合法や そんなもんが商店街の名簿に載ってるんやで
合法のキャバレーは1軒も載ってないのにや
要するに、このころの商店街組合は風俗店を街から排除するような姿勢は全くなかったということや
1966年の組合名簿にはトルコ風呂がさらに増えて、9軒載っとる
ところが1969年にはトルコが3軒、キャバレーが10軒と逆転した
このくらいになってから商店街振興組合は積極的に自治活動に取り組むようになったらしい
70年代以降、歌舞伎町は一気にピンク化していくことになる
80年代には「日本一のピンクゾーン」と呼ばれるようになって、治安も一気に悪化した
こうなるともう歌舞伎町で普通に生活することは難しいので、振興組合の人たちはみんなほかの場所へ引っ越していった
ただ土地は所有したままやから、組合はビルオーナーの集まりになっていったんや
こうなるとビルオーナーにとっては街の価値が下がって、借り手がつかなくなる恐れがあるから困るわけやな
そこで、商店街振興組合では、自分たちの所有するビルには風俗店は一切入れないという取り決めを作った
上に書いたように、80年代以降商店街振興組合はビルオーナーの集まりに、不在地主化していったわけやが
違法な風俗営業店が増えて、悪化する治安やイメージをどうにか回復したいと考えた組合員たちは、新宿区にロビーイングをして規制法案を作らせようとしたんや
その意向を受けて区も尽力し、84年に風適法が成立した
法律さえ成立してしまえば警察が何とかしてくれるだろうと思った区は、それ以降は特に何もしていない
ところが実際には、法律成立後も警察の立ち入り捜査はほとんど行われなかったんや
それはなぜか?
法律には附帯決議というものがある
これは法律の成立を野党が容認する際に、譲歩として留意させる文言のことや
んで風適法の付帯決議は、「別の犯罪捜査のために立ち入りしてはならない」となっている
ただし、付帯決議自体には法的拘束力は無いで
問題なのは「通達」のほうや
法律ってのは、施行する際には実際のケースに合わせていろいろと基準が必要やから、警察庁が「こういうふうに運用しなさい」と通達をするんや
風適法の通達には、附帯決議に沿う内容が含まれていた
さっきも書いたように附帯決議そのものには法的拘束力はないが、「通達」は警察全体を通して守らなければならないものやから、警視庁も従うしかない
その結果、風適法の施行以前よりもかえって立ち入り捜査がしにくくなってしまうという皮肉なことになってしまったんや
そんなわけで風俗店舗内への立ち入り捜査はなかなか進まなくなってしまったんやが、都としても警視庁としても悪化する歌舞伎町の治安を放っておくわけにはいかない
2000年代になると犯罪認知件数が増加していき、調査したところ盛り場で暴力団がトラブルを起こしていることが原因らしいとわかったんや
そこで警視庁は機動隊を歌舞伎町に投入して、暴力団の地回りを阻止しようとした
その成果もあって、暴力団は次第に歌舞伎町から姿を消していった
ただそうなると今度は新たな問題が発生する
それが風俗店の客引きやスカウトや
暴力団がいなくなったことで、こいつらが路上で堂々と活動を始めるようになった