もちろん僕としては、そんなこと、微塵も期待していなかったのだけれど。「がっかりしないでね」そういう風に、先生は前置きをした。「彼氏がいたんだよ」
氷のようなコンクリートに並んで腰かけた僕たちは、手を重ね合わせたまま、沖に光る赤いライトを見ていた。
「その人のことをね、ずっと忘れようとしてたんだ」
「どうして」
「だからね、わたし、東京に出てきたんだよ」
先生は、僕の質問には答えなかった。
「そんなことはうまくいかなくって、いざ本当に忘れてしまいそうになると、その人の思い出の品とか引っ張り出しちゃって」
僕に話しているというよりは、独白のようだった。
語り掛けるような調子の部分だけ、言葉が浮いてしまっているのだ。
「変でしょう? 自分がなにをしたいのかも、よくわかんなくなっちゃって。そうこうしているうちに、もうどうにもならなくなっちゃって」
「なにが、言いたいんですか」
「なにも」
笑いをこらえるように、先生は言う。
「なにも言いたくない。言いたくないんだよ。冬の朝とか、布団から出たくないことってあるよね。あれの、ちょっと強いやつみたいなのに、わたしは負けたの」
「なにも言いたくないなら、言わなければいいじゃないですか」
「ふざけてるんじゃないんだよ。本当のことなの。そんなしょうもないちょっとの障害物がね、わたしをだめにしたの。日に日にそれは大きくなって、日に日になにもしたくなくなって、ああ、もう、どうしてかな。彼は、どうしてそういうことをするかなあ」
「先生?」
「ごめん、ごめんね。ごめんなさい。わかんないよね。なにも、わかんないよね。でもね、お願いだから、そのままでいて。なにもわかんないままで、きみには、そのままでいて欲しいんだ」
その懇願には、どうにも、応えられそうになかった。
というのも僕は、部分的に、本当に部分的にだが、先生の身に起こったことについて、感づき始めていたからだ。
ただその推測、憶測を披露する相手としては、先生の心は弱り過ぎていた。
それに、この考えを示すべき相手は、他にいるような気がしていたのだ。
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