山裾の平地に広がる田んぼの間を縫うような小さな川沿い、それを大きな火山を左手に見ながら遡ると、小さな森にぶつかるんや。
そこに石造りの鳥居があって、大きな杉を祀っとる、その根本がN水源や
杉の大木が川に足を突っ込むようにして生えとるところ、水はそこからこんこんと湧き出しとった
言わば川のすみっこでさらに水が湧いてるような感じや
夏休み、受験勉強の息抜きにと水くみを買って出たワイは、カブの荷台にポリタンクを括り付けて久しぶりにここに来た
最後に来たのはその2年くらい前やった気がするわ
その日はよく晴れた夏の割に涼しくて、もう稲穂の形が見えてきた田んぼを、風がざわざわ揺らしとったんを覚えとる
鳥居をくぐって森の中に入ると、頭上の森のお陰で薄暗く、ことさら過ごしやすかった
ワイは杉の根本に座って、自分のすぐ足元からポコポコ湧き出る湧水が、川の流れと混ざって流れてゆくんぼんやり見とった
ワイは近畿の大学に行くことを決めとったから、しばらくここに来ることもないやろうなぁ、春にはもう一度来れるかなぁなんて考えとった
対岸、鬱蒼とした広葉樹から漏れた光が地面に落ちる辺りに、一本の灯籠が立っとった
神社の境内でよく見るような、台形の土台の上にロウソクを入れる函と、その上に屋根の意匠を持たせた、石造りの常夜灯や
ワイはそんなところに灯籠があったかなぁと思いつつ観察しとったが、屋根部分の苔むした具合からするに随分古いものであるように思われ、なんとなくそれが御神体であるような感じがして、立ち上がって灯籠に頭を下げたんや
頭を上げる一瞬、灯籠が女の形をとった気がした
深い緑色の浴衣をまとった、肩で髪を切りそろえた少女がこっちを向いているように思えたんや
ワイはまぁ気のせいやろうと思いつつ水くみを終え、もう一度立ち上がって灯籠に黙礼すると、しばらく見なくなるでであろうこの場所を眺め、鳥居から出た
ポリタンクを原付に括り付けていると、脇の田んぼから爺さんが歩いてきた
草むしりでもしていたのか、長靴は黒く汚れとったんが印象的やった
「あた近所ん人?」と、爺様はにこやかに聞いてきた ワイは隣町から来たこと、この水源には昔からよく来ていたことを話したと思う
爺様はすぐ近くに住み、長年田をやってるらしく、
こうして水源の来訪者と話をするのが生きがいだそうだ
この土地の歴史や季節の移ろいなんかを風流に語り、ワイはおおむね興味深く聞いていた。爺様が戦前この辺りにいたと言う化け大だぬきの話をしたものだから、ワイもつい今まで見てきた色々なものの話をして、たいそう盛り上がった
40分位そうして立ち話をした別れ際、
「それであた、あの人には挨拶したとかい?」と爺様はついでの様に聞いた
「なんべんか来とんなら、会うたこともあっど?水ば守っとらすたい。ワシも時々見ゆる」爺様はちょっと恥ずかしげに少年のように声を潜めて言うた
爺様はそれがどんな姿形かは言わなかった、ただなんとなくあの人が誰かワイにも分かっていた
はっきりと何と答えたかはまったく覚えとらん、ただ「また来ます」と言って、ワイは水源を後にした
暫く走ると、カブの荷台でポリタンクがちゃぷんちゃぷんかわいい音を立てるもんやからワイはロープを確かめるべくバイクを停めた
随分と遠くで爺様が鳥居に向かって一礼し、また畑に戻っていくのが見えた