闇が深すぎる…有名人の不審死まとめ70選!!※画像あり

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 沖雅也《飛び降り自殺》享年31(1983年)

[おきまさや]1952年6月12日 - 1983年6月28日

 

ファッション誌のモデルになるも、単発的なポジションだったためスナック勤めを続けながら業務をこなしていた。1968年、日活関係者が客として訪れ、縁あって入社、日活ニューフェース俳優として映画『ある少女の告白・純潔』で銀幕デビュー。1973年に必殺シリーズ(『必殺仕置人』の棺桶の錠役に抜擢。脚光を浴びる。1976年『太陽にほえろ!』へのレギュラー出演で、爆発的な人気を得ることとなる。

1983(昭和58)年6月28日5:00、新宿区西新宿2-2-1の「京王プラザホテル」47階建ての屋上から、150メートル下の7階の屋根に沖雅也こと日景城児(31)が飛び降り自殺した。《中略》部屋には「オヤジ、涅槃で待つ」とホテルの便箋に書かれた遺書があった。

沖は本名で宿泊していた。スポーツウエアを着ていた沖を、「J.Kプランニング」社長で、沖の養父の日景忠男(46)が確認した。沖は非常用エレベーターで47階まで上がり、鍵のない非常口のドアを開け、バルコニーへ出て、煙草を吸い、1.5メートルの柵を右足でまたいだ。警備員(24)が発見して止めたが、そのまま落ちたという。

 

中田治雄《飛び降り自殺》享年41(1979年)

Wヤング[なかたはるお](写真左)1937年12月2日 - 1979年10月25日

 

漫才師。本名:中田 軍治。ボケ・ツッコミ両方を担当していた。楽屋ではやっていた野球賭博に手を出した事と事業の失敗で多額の借金を抱えた。人気絶頂の最中、1979年10月に中田がなんば花月の舞台を失踪し飛ばす。漫才ブームが到来する僅か3ヶ月前のことであった。

10月25日午後1時25分、静岡県熱海市錦ヶ浦の展望台下70mの海面に死体が浮い ているのをホテルマンが発見、中田であった。発見直前に飛び込んだとみられ、内臓破裂で死亡しており、白いエナメル靴、白いブレザーのコート、紺のズボン 姿で、展望台に置いてあったカバンには漫才の台本などが入っていた。

青いボールベンによって5枚の便箋に「死出の旅」という遺書が残されており、「人はい さ心も知らぬ故里に死ぞ昔の香に匂ひけり」と辞世の歌が書かれ、東尋坊では知らない人に声をかけられ自殺出来なかったなどと書かれていた。

当時の借金額が3千数百万円だった中田さん。平川さんが様子のおかしい中田さんを問いただして借金の実態を知る。そして、二人で吉本興業へ行き、借金の肩代わりを懇願する。その際に吉本興業から「借金はいくらあるのか?」と、尋ねられた中田さんは「3千万円です。」と答える。本当は3千数百万円あった金額を「残りの数百万」が言い出せずにいたのであった。結果残りの数百万円を取り返す為にまたもや博打に手を出すことになるのであった。

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